Wednesday, December 27, 2006

お化けの話し

「祖先を粗末にしているから今の不幸がある。そこの石材屋さんと相談しなさい」
インチキ霊媒師、占い師の、ぼったくり常套手段。
我が妹の答え。
「確かに粗末にしています。死んだ祖先は勿論のこと、生きている祖先も、かなり粗末にしています」
占い師は二の句が継げない。
こんな娘と私ドラ息子とでは、母もぼけてはいられない。
究極の親孝行かも。

祖先は子孫を守るのが仕事です。
墓の作り方が悪いといって、どうしてたたるのでしょうか。
自分が祖先の立場になって、孫にこんな事を言う占い師がいたら、ホントに占い師にたたってやりたい。
なんと失礼な。
たたられるものなら、毎日殺している牛豚鶏魚にたたられます。
食べ過ぎると病気になるのでやはりたたられてるのかも。(笑)

いままでにお化けと会っている方々と多く会いました。
私は見たことはないのですが、お化けは居るのかもしれません。
少しずつ、そのお化けの話しを、キリスト教的考察をしながら紹介します。
死は恐くないのです。お化けも恐くないのです。
お化けはひったくりも痴漢もしないです。
生きている人のほうがよっぽど恐い。

うれしいニュース

ここ数日、優しい方々との出会いが多くあり、今年も大ボンビ(貧乏の楽隊用語)一年ながら、喜びの年として締めくくれそうです。
キリスト教式葬儀普及相談のため、何人もの神父や牧師と話す機会がありました。
最初は「信者でもない人の婚葬式は、神への冒涜。信者さん達の機嫌を損ねる」と言われた先生も、すぐにわかったいただきました。
それどころか、

「我が教会での葬儀は一般の方々も含め全て無料でやります。
柩などは教会が負担して、完全無料です。
それが人生最大の悲しみにある人への当然の配慮です」
「タダというのは寿司屋の時価と同じ一番高くつきそうな感じですが」
「実際経費がかかるので、木下先生、安く柩を手配してください。献金は受け付けますが、10万円以上は受け付けません」

なんとこんな答えをくださった教会がいくつかあったのです。
いくつかですよ。例外でないのです。
「いずれはそうしますが、今のところ消耗品経費だけは負担下さい」という教会は多かったです。

持ち慣れないお金は人を堕落させる要素があります。
マクドナルドの故藤田田社長は
「お金は何に使うのかを決めてから、稼ぎなさい。
若くして、思わぬ大金を手にすると、酒と女に溺れて健康すら失う。
年をとってからだと、溺れたくても、体力がないので、健全な使い方ができる。」
とオチも入れて語ります。

ずいぶん昔から「葬式仏教」と言われるようになりました。
個人的に多くのすばらしい僧侶や仏教徒と出会いました。尊敬しています。
素晴らしい宗教が、なぜここまで軽蔑を受けるようになったのでしょうか。
かつては政治的、歴史的、学問的権威を誇っても、現在は葬式収入と観光収入に頼っている現実です。
僧侶が病床の人に人生を語ろうとしても「まだ生きてる、来るのが早い」と嫌われます。

キリスト教式が普及すると、「貧乏葬式教会」となる危険は大きいでしょう。
葬儀で教会運営が出来るようなると、生きている人達への、伝道やケアーがおろそかになる可能性があります。
ヨーロッパの教会がすでにそうです。
やはり「無料」で持ち出しでなければならないのです。

献金は義務でなく権利です。
「受けるより与える方が幸いである」その幸いを得ることができる信者の権利です。
経費を支払うマナーは必要としても、信者以外に献金する権利はないのです。

死への恐れは元気の証拠

「男性更年期」がかつて話題になりました。書籍名は忘れました。
女性ホルモン、エストルゲンが減少して更年期障害があるように、男性ホルモン、テストステロンが年とともに減少して、更年期が起こる。その特徴は、意欲喪失。
金銭欲、名誉欲、権力支配欲、性欲なども減少する。
生きたくもない死ぬことも恐ろしくない。
俗に言う「丸くなった」

著者は続けます。
「ある宗教は欲望の減少、死の恐怖克服を目指して厳しい修行をするけど、そんなもの去勢手術すれば簡単。
宗教などというもの、そんなレベルの低いものですか」
昔の中国に宦官と言われる高級官僚がいたそうです。
タマ抜くことで、皇帝のハーレムを荒らすこともない。
小金に汚くても、皇帝のイスをねらうほどの欲は持たない、ということだそうです。

人の生理的解釈は、なんと身も蓋もない。
厳しい修行をしなくても、年取れば自動的に死の恐怖はなくなります。
あるということはまだ元気。政治家はかなり老人にになって、まだ権力欲豊富。元気ですね。うらやましい。
それだけに、若年の死は悲しいです。

Thursday, December 21, 2006

帰るところ

沖縄のクリスチャン、カミヤさん。
東京にいた時、ホームから線路に突き落とされたそうです。
電車が入ってきて、必死で避けたものの、左手が根本から切断しました。
祈りました「神様今まで、左手をありがとうございました。今お返しします」

驚きました。
傷の痛み、無くしたものの大きさ、加害者への恨み。狂乱しても当然です。
なぜこんなに強いのか。

我々は神によって命を与えられました。
そして肉体を与えられ、この世に生まれました。
肉体は古くなり、少しづつ神にお返ししながら、やがて肉体すべてを返して、魂も帰らなければなりません。
私も、足腰が弱まり、好きな山も、行けるコースが限られてきました。
なにより、意欲がどんどんなくなります。
まだ新聞読めるけど、目も衰えた。
これから生への執着も徐々になくなることでしょう。

我々は神によって生まれ、神と共に歩み、神の元に帰らなければなりません。
ところがこの世では、神を神にしないで、自分を神にしてしまいます。
神と離れ、糸の切れた凧になりました。
自分勝手がしたいからです。
「厄除け」だどと不幸は他から来るように思っています。そこまでも自己中心。
他からの不幸は戦えば勝利できます。努力で何とかなります。
でも内からの不幸には負けるのです。
自分のしたいことができず、やめようとすることが、やめられません。
「罪の奴隷」となりました。
どのツラさげて、神のもとに帰れましょうか。

自分を産み育ててくれた親は、どれだけ自分を愛してくれているでしょうか。
なかなかわかりません。
自分が親になったとき、やっとわかります。
今クリスマスです。
我々を作った神は、我々をどれほど愛してくださっているのでしょうか。
なかなかわかりません。

神はプレゼントをくれました。
罪の奴隷から解放してくださるのです。
一人子イエスキリストが生まれ、十字架で我々の罪をすべて代わってくれました。
いうならば一方的な愛をもって罰金を払ってくれたのです。
神との和解、仲直りができました。
罪は許され、神の前に喜びを持って立つことができます。
死は恐くないのです。

Sunday, December 17, 2006

死は恐くない2、いのちの出どころ

いつから人生に目的も意義もなくなったのでしょう。
すべては偶然と言う悪い宗教に毒されています。
ここからひく人も多いでしょう。常識とは違いますので。
進化説信仰を信じているからです。
進化説(進化論とも言えないほどお粗末)は科学ではありません。信仰です。
ダーウインは科学方法論も知らない神学者であって、生物学は素人。ガラパゴスでめずらしい生物をチラッと見ただけ。
「泥の中からうなぎが生まれる」といった錬金術発想の延長線。
科学的動機でなく権力者への反抗。
そして「科学がすべてを解き明かす」といった思い上がりは、ニュートン力学の延長。
ニュートン自身、まだ錬金術師。
20世紀量子力学時代になって、湯川秀樹博士は「科学で分かることは、牛一頭のうち、毛一本もない」

本を読んでるだけの学者もどきは別にして、毎日生命に接している生物学者は進化説を信じません。
絶妙なバランスで生きているので、わずかな変化でも生きていけないことを実感します。
「私は進化説を認めないが、他の学者は流行に逆らえない」(日高敏隆京大教授)
以上科学論争であって、宗教vs科学という場外乱闘に持ち込まないでください。

ここから宗教以前の議論
死を考えることは生命を考えること。
人間の、浅はかな頭で分かるような小さなものではありません。
毛一本すら分からず、牛全体を理解しようとすることが、無益なことです。

命をいただき、その源である方と共に生き、また源に帰っていく。
「主は与え主は取り去る。主の御名はほむべきかな」ヨブ
どうすれば神を見出し、信頼し、共に歩めるか。
人間鵜呑みできるほど、素直ではありません。
ここから宗教。
少しずついきます。お付き合いを。

Wednesday, December 13, 2006

死は恐くない?!

いきなり「死は恐くない」等と言われても、やはり恐いものです。
まともな宗教の、並みの信仰者なら、死は恐くないのですが、やはり不安です。
恐くない理由を少しずつ記しますが、まず恐いことを素直に認める事から、始めましょう。

聞き覚え部分が多いので、正確でないことを、何度も言い訳してますが、
吉川英治の宮本武蔵にも出てくる有名な沢庵和尚。臨終の床にあります。
さぞかし名言が聞けるかと、秀吉だったか、家康だったか「遺言は?」
もう声も出ない状態で、ささやいたか書いたかで「死にたくない…」
「さすが名僧。臨終までも冗談が言える」
「冗談でなく本当だ…」

沢庵は修行が足りないと思いますか?
たぶん彼は死を恐れない心境に達しながらも、もう一歩進んで、すなおな心になり、見栄を張らず「恐い」と言える境地だと思います。
まず凡人から180度変わり達人となり、また変わって180度。一見凡人風達人。

次は達人風凡人。
知り合いの医師の話。
名僧、高僧と言われる人がガンで入院してきました。
「死の準備は長年の修行で出来ている。残る一日一日を大切にしたいので告知してくれ。ガンだろう?」
担当の修行の足りない若い医師は、そのまま信じて、尊敬の思いで、うなずいてしまったそうです。
それ以来この名僧、食事がのどを通らず、しょげかえって、死期が随分早まりました。
この病院では、それからしばらくは、告知しない方針になりました。

でも知り合い医師は、その後、告知賛成に意見が変わりました。
何人かの若者が難病で死ぬ時、家族や病院スタッフに「ありがとう」と言い、幼児が母親に「先に死ぬけど、お母さん悲しまないでね」と、かえって親を気遣って死んでいった姿を、幾度か体験したそうです。
厳しい修行より、幼い純真な信仰が、死を乗り越えたのです。