Tuesday, August 14, 2007

同じ思い

先日突然の来客がありました。
知人の商工会議所役員からの紹介と言われました。
私は専攻は雑学。職業は無給牧師なので、おいしい霞を吸っています。
時々「メシ食う」仕事も様々。
どの関連かと、とまどいました。
演奏依頼か里親の話か、癌になったので栄養相談か、保険代理店としての事故相談か。
聖書講座だとうれしいのだが。

どれでもありませんでした。
以前、葬儀屋さんを立ち上げたそうです。
今やその会社は市内でも№2か3に成長しました。
ところがその方は創立者なのに早々と手を引いたそうです。
その理由は
「普通の葬儀屋になってしまった」
「無駄な金がかかりすぎる」「遺族のパニックにつけこんで」
「遺族が地区で親しくしていた花屋さんや仕出し屋さん等の関係が悪化させる」
と怒りに満ちておられました。
そして、いま改めて、営利を考えない理想の葬儀サービスを始めようとされています。

ほとんどが同じ考えなので、大いに意気投合して盛り上がりました。
頼もしい人ができました。協力してくれそうです。
みんな、同じ事を考えています。
大きく動くのが近い気がします。

Monday, July 30, 2007

大切なものは失う№2

6歳の息子が8/2の花火大会を楽しみにしています。しかし台風が近づいてます。
そういえば、今は20代後半になっている実子の娘が幼い頃、せっかく花火に行ったのに、怖がって目を塞いでいたのを楽しく思い出します。

花火は一瞬の美です。
フルートの仲間に花火師がいますが、彼らの数ヶ月の地味な仕事も一瞬にして、燃え尽きます。
すっかり頼もしく育った娘達。
でも幼いころのかわいさは失われました。
20年の歳月も花火のように一瞬の感じです。

2歳で我が息子になったころの写真をみると、その時ならではの何ともいえないかわいさがあります。
逞しく育ってほしいものの、今のかわいさのままであってほしい。
ぜいたくにして、不可能な思いです。

近所にある大覚寺の中西師が法話で一期一会を語っていたのが思い出されます。
「毎日会える人でも、昨日の人ではなく変化した人。たった一度の出会いを大切に」
本当にその通り。

戦争を生き抜き、食べ物もない時代に我々を守ってくれた母もすっかり年老いました。
いまだもって親不孝を繰り返す毎日。
失う前に何とか大切にできるよう励みたいのです。

Sunday, July 22, 2007

大切な物はかならず失うべきもの

今、たまたまNHKで、手塚治虫の「火の鳥」をやっています。
冒頭に「人は産まれ死ぬ。しかし、人はそれを受け入れない」

大切なものはみんなタダ
一番大事ないのちはタダでもらっていつか返さねばならない。
いのちより大切な我が子は、すぐに自立独立させて、離れなばならない。
夫婦のハネムーン時代は束の間(!?)。いつかは死別ないし生別。

日本では、へその緒を大事にする習慣があります。
親子の関係を大切にする象徴でしょうか。
二人の娘がいますが、そのへその緒は病院の手違いでありません。
他に幾人かの里親となった今、そのことは特に気になりません。
血縁なくて法的にはタダの同居人ですが、親子です。
お互いに決して裏切ることのない、相思相愛!?
人として、最も大きな喜びであり幸いなのです。

どこか外国では、子供が初めて履いた靴をメモリアルに大切にする習慣があります。
大切な子供だけど、いずれは自分の足で人生を歩むことを示します。
親は靴を見るたびに「決して自分の私物ではない」と自分に言い聞かせます。
娘をヨメに出す父親の喜びと悲しみを常に味わいます。

ヨメ姑問題になると、このへその緒はとんでもない働きをします。
「この紋所が目に入らぬか。息子と私は一体だったのよ」
親離れ、子離れができないと夫婦破綻します。

大切なものは必ず失います。
だから今を大切にできるのです。
葬儀の準備は、今を大切に生きる上手な方法です。

Thursday, July 19, 2007

8/4ボランティア葬儀学習会

アスコン(明日を語る播磨地区懇談会)例会8/4(日)10:00 網干市民センター3F
「ボランティア葬儀の提案」
発題は私、木下春樹

先日このグループと、姫路市内の廃棄物処理場の見学会に参加しました。
私は原則、何にでも参加します。どうぞ誘ってください。
ビンボなので、参加料が高いのと、予定が入っている時は物理的にむりですが。
いかがわしそうなネットワークビジネスでも、怪しげな新興宗教でも、とにかく当事者から直接聞いてみないとわかりません。
電話セールスでも丁寧に聞きます。
妻が「どうせ買えないのに、思わせぶりな。一番不親切。」と叱られます。

アスコンはすばらしいグループでした。
可燃物のリサイクル工場、紙のリサイクル、下水汚泥の最終処理。
次々回るうち、打ち解けて、初参加の私も大きな顔をして発言します。
「人間の最終処理も考えませんか」
「もっと尊厳あるものはできないか」
「そういえば、父の葬儀はつまらないものなのに、200万円かかった」
「なんとかならないのか」
「様々なパターンでも命の尊厳を感じさせるものとは」
と盛りあがり、順番が回ってきました。
どうぞお越し下さい

前日はミニコンサート
2007,8/3 14:30 木下音楽教室(網干高校北)079-273-8531
      16:30喫茶花ポシェット(網干市民センター北)079-273-6224
        ソプラノ:中塚洋子  ピアノ:稲積真由美
8/9 銀羊苑 関係者

Sunday, March 04, 2007

緊急に対応できました

先日は、102才の方の葬儀でした。
親族だけということで、午後に連絡があり、その夜に通夜、翌日に葬儀ということ。
これまた忙しい。
法手続にしても役所はすでに閉まっている。
柩を載せて車を飛ばすつもりが、大渋滞。
牧師婦人が、車の中から携帯で火葬場の予約や、関係者に次々連絡。
電池が切れて、私の携帯を使うものの、これも残りがあやしい。

その間に病院から遺骸を運んできた葬儀屋が食い下がっています。
我々が行くつもりだったのに、発注もしていないのに、病院指定と当然の顔をしています。
病院指定でも、誰が支払うのですか。
いかがわしい癒着をしているようです。
素人がやると法律違反だと言わんばかりで、悲しむ遺族を動揺させます。
教会がみなやりますと言っているのに、まだ食い下がる。
今回の葬儀経費の大半がこの移送費でしょう。
タクシーだったら数千円で済むのに。

暗くなってやっと我々が到着。担当牧師も関東から、出張の仕事を何もしないままとんぼ返り。
2万円で花を買うと、鮮度の少し落ちた在庫をおまけしてくれました。
婦人たちがそれぞれの花器に生けてくれました。
感動しました。
業者の整った祭壇はきれいです。
しかし、心を込めて生けたのが、いくつも並んでいます。
見劣りしない上に、商品では絶対できない感動があります。

例によって私のフルート演奏。
貧乏な中で親に高い楽器を買って貰って、音楽大学にまで行かせてもらったのに、まだ元の取れていない感じです。
でもこんな時にお役にたてば、価値もあるのかなと思うこのごろ。

その他には、私は付いている以外、ほとんどなにもしなかったようです。
牧師夫妻で、ほとんど処理されました。
慣れておられないので、緊張もあったでしょう。お疲れさま。
もうすっかり自信を付けられたようです。
頼りになる教会がまた一つ増えました。

Saturday, February 24, 2007

ボランティア葬儀の提案

葬儀費用は全国平均280万円、いくら質素でも50万円以下では不可能です。
知人の米国人はこの値段に「クレージー!」と言いました。
確かに、人の死という厳粛な事実は金銭にかえられません。プロはプロだけの仕事をしてくれるでしょう。
しかし多様化の時代に、もっと選択肢があってもいいのではないでしょうか。
そこで有料(無料)ボランティア葬儀を提案いたします。

すでに5万円予算から大規模まで、手作りでの暖かい式をやってきました。
ほんのしばらく前は、どこでも町内会長さんが、てきぱきとされていましたが、徐々にノウハウを無くしています。会長さんや近所の方々は仕事まで休んで、大きな負担をかかえるので、業者任せになってきました。
みんなで涙を流しながらのお手伝いこそが慰めになるのに、お金を払って事務的にやってもらうのでは手抜きと言えます。
業者は従業員を雇い常に待機していなければなりません。待機も経費がかかります。ボランティアなら待機料はありません。

今のところ我々の立場上、キリスト教式か、無宗教しかできません。仏教、神道関係者の参加を歓迎します。
無料でも、引き受けてくれる教会をリストアップしています。
まだまだ、「自教会の会員のみ」という教会も多い中、「非信者でも、柩や有料ボランティアの費用も教会が負担して、完全無料を目指す」と言ってくれた教会もありました。「悲しむ人を苦しませてはならない」と。…感動でした。
牧師や教会役員を中心に、ボランティアも、集まりつつあります。
キリスト教の慰霊は「神に取りなす祈り」を中心とした礼拝です。音楽が活躍します。
天国への救いはキリストの仕事ですので完璧です。故人の精進でもなければ、遺族や聖職者の供養技術ではありません。
無宗教式でも、「葉っぱのフレディ」や「千の風になって」のように、さわやかな、希望に満ちたものも可能です。
どちらにしても、遺族、参列者が、悲しみを共にすることで、孤独と絶望から立ち直るきっかけを目的とします。
本来の姿に立ち返りましょう。

こちらも覗いてください。
笛吹牧師山の詩   http://music.geocities.yahoo.co.jp/gl/zionsvjp
笛吹牧師の結婚講座 http://plaza.rakuten.co.jp/zionsvjp/
網干キリスト教会:
フルート教室:網干教室(網干高校北300m)&新在家教室(県立兵庫大学西、姫路恵教会内)
                     090-3922-2995    

Sunday, February 11, 2007

充実の中の虚しさ

70年代前半、私は音楽三昧で、本当に楽しい、充実した時期でした。今だって楽しいですが。
これからは徐々に体が衰え、持病も増えて苦しみながら、人生を終えていくわけです。
でもこの時代の思い出だけで、「楽しい人生だった」と結論づけられそうです。

朝から夜9時10時まで、警備員さんに追い出されるまで、練習のため、学内にいました。
授業は「高い授業料の基とらねば」とあらゆる科に出ました。
声楽科だけの合唱授業にも、男声不足のどさくさで参加して、N響第9に毎年参加しました。
個人練習、仲間と合奏、図書館でレコード鑑賞。
四千人の学生、その八割が女子学生。美人は豊富。
伴奏ピアニストは、本番には、とにかくうまい人。練習ピアニストには、なるべく美人。などど最高に贅沢。
卒業してからも、さらに留学して学びたいと、ドイツ語学校に通う。そこで他の分野の方々との交流も楽しかった。
演奏の機会もたびたびあり、それなりの出来で良い評価をもらって、この上ない充実感に満たされた日々でした。

でも大きな喝采をもらった演奏会が終わり、やがて一人になり、充実の余韻にひたる中で、ふと心に大きな隙間があり、風が吹き抜けていきます。
「なんだこれは!」
こんなに充実しているのに、この虚無感はなぜ?
そこに親しくしていた彼女が去り、高校でのコーラス仲間が死亡し、中学からの吹奏楽での仲間も。
2人とも、私が音楽の道に進んだことを喜んでくれて、「初コンサートはぜひ地元でやれ。応援する」と言ってくれた人。
虚無感の心の穴は最大の大きさになったようです。
そういえば、太宰治、三島由紀夫、川端康成。自殺した文豪はその前日まで、ばりばり充実した仕事をやっていた様子。

吹奏楽仲間のマツイは、たまたま帰省した時に訪ねると、潰瘍で入院後の自宅療養中。
「これをやるから読め」と小型聖書をくれました。
それから数ヶ月後に逝ってしまった。
遺品となった聖書を、涙とともにパラパラと読んでいると
「神はその一人子をくださるほどに世を愛された」ということばが、目につきました。
意味はよくわかりません。
でも宇宙と世界をつくられた方が、私を愛して下さっている!
そのとたん、空虚な心の穴に、泉のようにあたたかいものが湧き上がり、穴を満たすどころか、溢れてくる実感がありました。
パスカル言うところの
「神によって作られた人間は、神によってしか満たされることのない空間がある。」
その空間が、満たされた実感でした。

Friday, February 02, 2007

心を満たす神。その仕事

宣教師は心の中心を聖霊が満たしているのに、本人が意識してなかったわけです。
悪霊を追い出る能力があることを自分自身が驚きました。

我が遠縁にも、霊能力がすぐれている人がいます。その師匠はさらに見事です。
他府県で高速道路が建設され、無縁墓が撤去されそうだと聞かされました。
それは何代も前の親族が忘れ去られた悲しみを叫んでいるというのです。
行ってみると、はたして親族らしい名前が刻んでありました。
また他の死んだ親族の迷える魂の状態を克明に教えてくれます。
どんな親族がいるかは、まったく知らせていないにもかかわらず。

我々の話題が出ないので、こちらから聞いたそうです。
「姫路の木下一家はどうでしょうか?」
「何も見えない。バリアーがかかっているみたい」
「クリスチャンファミリーです。」
「なんだ、それでか」
驚きました。
私達本人より、何だかいかがわしい思える霊媒師のほうが、キリストの偉大さを理解している!

守るべき子孫を祟るような祖先。
前に述べたように、ニセものですが、本物とすれば、かなり歪んでいる。
お盆には、地獄の釜のふたが開いて、先祖が帰ってくる。
ということは、葬儀の際の、回向、供養は無駄だったことになります。

怪しげな霊能力者の徐霊は怪しいものです。
もっとひどくなりそう。
人に魂を扱うなどと、そんな力があるわけがないのです。
私も牧師の端くれとして、死者を天国へ導く「とりなしの」祈りをします。
だからといって、それがかなうか否かは随分あやしい。
私の力量ではどうしようもありません。
天国への救いの仕事をしてくれるのはキリストです。
当然それは、完璧です。

死後は神に委ねる以外の方法はありません。
ですので、生きているうちに、険しい顔が優しい顔に変わるのを見たい。
すでに、この世において、天国=神の国の籍を持つのを見たいのです。

Monday, January 29, 2007

こころの空間

あるキリスト教宣教師のお話
この宣教師は、理屈っぽく、哲学的な団体に所属しています。
インドネシアに着いたとたん「ちょうどよかった、悪霊に憑かれて、暴れている人がいるので来て下さい」
「そんなこと言われても、私は理屈の講義しかできません」
「なに言ってるのですか、宣教師でしょう。頭に手を置いて、イエス様の名によってお祈りください」
「それほど言うなら、やってみます。あれ出来ちゃった」

「私達は聖霊の宮である」(新約聖書)
神によって作られた我々は、神でなければ、満たされない心の空間がある」(パスカル)
その空間は、神の聖霊が入っているか、はたまたいかがわしい霊が宿っているか。
悪霊が入ると、人格が壊れたり、(精神病とは違う症状)霊感や特殊能力が出たりします。
テレビでしか見たことがないので、私もいきなりは、信じられないのですが。
ほとんどの人は、その入り口を、「自我」が、がっちりとふさいでいます。

指導者のない、中途半端な宗教修行は、悪霊を心に招いてしまいます。

十字架の死が救いになるという、桁外れにいかがわしいことが、理屈抜きに信じられるのは、理性を放棄したか、聖霊がしっかり入っている証拠です。
キリストの名によって、信じられないほど大きな力が出てきます。

Thursday, January 04, 2007

お化けの話し2

「お化け」などと、ちょっとからかったような、言葉を使っています。
当然、ご先祖だったら、からかっては失礼です。

先祖も私たちも、神に作られ、神と歩み(ほとんどは一人身勝手に)神のもとに帰るわけです。
そこは天国か、はたまた地獄か。遠いところです。
近くで、いつまでも、うろうろしていません。
うろうろしているのは、先祖に化けた低級悪霊です。
そんなもの尊重する必要がありません。

私はお化けを見ることができませんし、見たくもありません。
でも不思議な話は色々聞きます。
ばかばかしいものがほとんでです。
でも個人情報を知っているお化けは「やはり」と思いやすいでしょうね。

音楽学生の時、ある友人は(お化け見えるのは、なぜか女性ばかり)
「親戚の葬儀に出席しているとき、なにかがフッと私に入ってきました。
前に並んだ初対面の人達の名前が、急に全部わかりました。故人が入ったことがわかりました。」
とのこと。

隣の町の魚屋さんが、ある時この能力が突然ふりかかりました。
いまや広大な敷地と大神殿を持ち、全国規模の宗教団体となりました。
それを見ながら、霊能力のある人は、言います。
「昼夜問わず、お化けのうるさいのと対応して、うんざりしているのに、わざわざお金払って修行して、能力を身につけ、うんざりしたいのかしら?」
随分単純。

オームの麻原なんたらも、多少の能力があったかも。
蓮華座組んだまま空中に浮かべば幸福になれるのかしら?幸福と関係ないと思うけど。
いかがわしいテクニックに感心して、人の生命を奪い、人生を無駄にした愚かさは霊能力のため。
お化け信仰の結末。
次回、キリストの御名により、悪霊を追い出した聖書の記述にはいります。