Tuesday, December 09, 2014

2014.12/5&7 礼拝


2014.12.5(金)& 30(日) アドベント第二日曜礼拝式次第


主題聖句完成させてくださることを私は堅く信じている
賛美歌   94
ヘブル聖書 マラキ 3:1-4
主の祈り
ニカイア信条
ルカ    1:68-79
賛美歌   95
使徒書簡  ピリピ  1:3-11
福音書   ルカ3:1-6
説教    「すでに救い主は来られ、救いのわざもなされた
賛美歌   174
頌栄       546
祝祷

今週はザカリアの歌をもって信仰の励ましを頂きます。
ルカ1:68はラテン語でベネディクテュスとよばれ、同じく1:46のマリアの賛歌はマニィフィカートと呼ばれます。
いずれも多くの作曲家が使って名作を書き上げています。
二つとも神への賛美から始まっています。
信仰的に成熟した人は、第一声は、自分の本音ではなく、賛美から始まる事に表れます。イエス様が教えてくださった祈りの模範「主の祈り」も、呼びかけるとまず賛美です。

現実的にも見てみましょう。まずザカリアは突然天使を見ました。これは誰でもビックリでしょう。オバケと思うでしょう。恐怖です。神を見ると死ぬのでこれまた恐怖です。彼はしるしを求めました。並の人間には当然過ぎることです。ギデオンもしるしを求めて、神に叱責を受けなかったことを知っているでしょう。しるしは、神の裁きと訓練も兼ねて突発性聾唖となりました。
沈黙の中で、ザカリアの信仰は成長していきます。

マリアも、突然身に覚えのない妊娠に驚きます。天使ガブリエルが伝えてくれても、初めての天使との出会いです。何が何だかわからないはずです。ザカリアより乙女の素直さが勝っていますので、恐怖はザカリアより少なく、しるしを求めていません。
でも並の乙女なら、聖霊による妊娠など誰が信じてくれようか、婚約者も信じてくれないだろう。世間に知れると石打ちの死刑が待っている。
でもマリアは平安でした。これは信仰の訓練というより、素直な信仰です。

我々の時代には進化論が一般化され、時間経過とともに進歩が当然という迷信がはびこりました。社会共産主義に採用され、社会も進歩するという迷信です。
進歩するということは、ムカシの人はバカであるという前提になります。
成長するということは、若い者はバカであるという前提になります。
人と社会はバベルを塔を作れるだけの科学技術的進歩もあるが堕落がある。
聖書では何度も何度も警告をしているのに、天に届くかとバベルの塔をせっせと作っている人類社会。何の進歩もなかった。

信仰のプロである祭司ザカリア。右も左もわからない乙女マリア。ここにおいては、無知でも無垢なマリアのほうが評価されている気がします。
さて、信仰は競争ではないので、どちらがエライというものではなく、二人とも第一声が賛美であることがすばらしい。

どんなに困難があろうと、その背後には神の守りがあります。
ヨブがサタンに痛めつけられても、背後で神がサタンをコントロールしていることを、我々は聖書によって知らされていいます。
キリストの十字架で、我々は罪許されて、永遠の命を保証されていることを知っています。

一日の始まり、仕事や勉強の始まり、困ったことや心配があった時、つらい事苦しいことがあった時、何はともあれ、まずは賛美することから始めれば、勝利ある人生です。