Wednesday, December 27, 2006

お化けの話し

「祖先を粗末にしているから今の不幸がある。そこの石材屋さんと相談しなさい」
インチキ霊媒師、占い師の、ぼったくり常套手段。
我が妹の答え。
「確かに粗末にしています。死んだ祖先は勿論のこと、生きている祖先も、かなり粗末にしています」
占い師は二の句が継げない。
こんな娘と私ドラ息子とでは、母もぼけてはいられない。
究極の親孝行かも。

祖先は子孫を守るのが仕事です。
墓の作り方が悪いといって、どうしてたたるのでしょうか。
自分が祖先の立場になって、孫にこんな事を言う占い師がいたら、ホントに占い師にたたってやりたい。
なんと失礼な。
たたられるものなら、毎日殺している牛豚鶏魚にたたられます。
食べ過ぎると病気になるのでやはりたたられてるのかも。(笑)

いままでにお化けと会っている方々と多く会いました。
私は見たことはないのですが、お化けは居るのかもしれません。
少しずつ、そのお化けの話しを、キリスト教的考察をしながら紹介します。
死は恐くないのです。お化けも恐くないのです。
お化けはひったくりも痴漢もしないです。
生きている人のほうがよっぽど恐い。

うれしいニュース

ここ数日、優しい方々との出会いが多くあり、今年も大ボンビ(貧乏の楽隊用語)一年ながら、喜びの年として締めくくれそうです。
キリスト教式葬儀普及相談のため、何人もの神父や牧師と話す機会がありました。
最初は「信者でもない人の婚葬式は、神への冒涜。信者さん達の機嫌を損ねる」と言われた先生も、すぐにわかったいただきました。
それどころか、

「我が教会での葬儀は一般の方々も含め全て無料でやります。
柩などは教会が負担して、完全無料です。
それが人生最大の悲しみにある人への当然の配慮です」
「タダというのは寿司屋の時価と同じ一番高くつきそうな感じですが」
「実際経費がかかるので、木下先生、安く柩を手配してください。献金は受け付けますが、10万円以上は受け付けません」

なんとこんな答えをくださった教会がいくつかあったのです。
いくつかですよ。例外でないのです。
「いずれはそうしますが、今のところ消耗品経費だけは負担下さい」という教会は多かったです。

持ち慣れないお金は人を堕落させる要素があります。
マクドナルドの故藤田田社長は
「お金は何に使うのかを決めてから、稼ぎなさい。
若くして、思わぬ大金を手にすると、酒と女に溺れて健康すら失う。
年をとってからだと、溺れたくても、体力がないので、健全な使い方ができる。」
とオチも入れて語ります。

ずいぶん昔から「葬式仏教」と言われるようになりました。
個人的に多くのすばらしい僧侶や仏教徒と出会いました。尊敬しています。
素晴らしい宗教が、なぜここまで軽蔑を受けるようになったのでしょうか。
かつては政治的、歴史的、学問的権威を誇っても、現在は葬式収入と観光収入に頼っている現実です。
僧侶が病床の人に人生を語ろうとしても「まだ生きてる、来るのが早い」と嫌われます。

キリスト教式が普及すると、「貧乏葬式教会」となる危険は大きいでしょう。
葬儀で教会運営が出来るようなると、生きている人達への、伝道やケアーがおろそかになる可能性があります。
ヨーロッパの教会がすでにそうです。
やはり「無料」で持ち出しでなければならないのです。

献金は義務でなく権利です。
「受けるより与える方が幸いである」その幸いを得ることができる信者の権利です。
経費を支払うマナーは必要としても、信者以外に献金する権利はないのです。

死への恐れは元気の証拠

「男性更年期」がかつて話題になりました。書籍名は忘れました。
女性ホルモン、エストルゲンが減少して更年期障害があるように、男性ホルモン、テストステロンが年とともに減少して、更年期が起こる。その特徴は、意欲喪失。
金銭欲、名誉欲、権力支配欲、性欲なども減少する。
生きたくもない死ぬことも恐ろしくない。
俗に言う「丸くなった」

著者は続けます。
「ある宗教は欲望の減少、死の恐怖克服を目指して厳しい修行をするけど、そんなもの去勢手術すれば簡単。
宗教などというもの、そんなレベルの低いものですか」
昔の中国に宦官と言われる高級官僚がいたそうです。
タマ抜くことで、皇帝のハーレムを荒らすこともない。
小金に汚くても、皇帝のイスをねらうほどの欲は持たない、ということだそうです。

人の生理的解釈は、なんと身も蓋もない。
厳しい修行をしなくても、年取れば自動的に死の恐怖はなくなります。
あるということはまだ元気。政治家はかなり老人にになって、まだ権力欲豊富。元気ですね。うらやましい。
それだけに、若年の死は悲しいです。

Thursday, December 21, 2006

帰るところ

沖縄のクリスチャン、カミヤさん。
東京にいた時、ホームから線路に突き落とされたそうです。
電車が入ってきて、必死で避けたものの、左手が根本から切断しました。
祈りました「神様今まで、左手をありがとうございました。今お返しします」

驚きました。
傷の痛み、無くしたものの大きさ、加害者への恨み。狂乱しても当然です。
なぜこんなに強いのか。

我々は神によって命を与えられました。
そして肉体を与えられ、この世に生まれました。
肉体は古くなり、少しづつ神にお返ししながら、やがて肉体すべてを返して、魂も帰らなければなりません。
私も、足腰が弱まり、好きな山も、行けるコースが限られてきました。
なにより、意欲がどんどんなくなります。
まだ新聞読めるけど、目も衰えた。
これから生への執着も徐々になくなることでしょう。

我々は神によって生まれ、神と共に歩み、神の元に帰らなければなりません。
ところがこの世では、神を神にしないで、自分を神にしてしまいます。
神と離れ、糸の切れた凧になりました。
自分勝手がしたいからです。
「厄除け」だどと不幸は他から来るように思っています。そこまでも自己中心。
他からの不幸は戦えば勝利できます。努力で何とかなります。
でも内からの不幸には負けるのです。
自分のしたいことができず、やめようとすることが、やめられません。
「罪の奴隷」となりました。
どのツラさげて、神のもとに帰れましょうか。

自分を産み育ててくれた親は、どれだけ自分を愛してくれているでしょうか。
なかなかわかりません。
自分が親になったとき、やっとわかります。
今クリスマスです。
我々を作った神は、我々をどれほど愛してくださっているのでしょうか。
なかなかわかりません。

神はプレゼントをくれました。
罪の奴隷から解放してくださるのです。
一人子イエスキリストが生まれ、十字架で我々の罪をすべて代わってくれました。
いうならば一方的な愛をもって罰金を払ってくれたのです。
神との和解、仲直りができました。
罪は許され、神の前に喜びを持って立つことができます。
死は恐くないのです。

Sunday, December 17, 2006

死は恐くない2、いのちの出どころ

いつから人生に目的も意義もなくなったのでしょう。
すべては偶然と言う悪い宗教に毒されています。
ここからひく人も多いでしょう。常識とは違いますので。
進化説信仰を信じているからです。
進化説(進化論とも言えないほどお粗末)は科学ではありません。信仰です。
ダーウインは科学方法論も知らない神学者であって、生物学は素人。ガラパゴスでめずらしい生物をチラッと見ただけ。
「泥の中からうなぎが生まれる」といった錬金術発想の延長線。
科学的動機でなく権力者への反抗。
そして「科学がすべてを解き明かす」といった思い上がりは、ニュートン力学の延長。
ニュートン自身、まだ錬金術師。
20世紀量子力学時代になって、湯川秀樹博士は「科学で分かることは、牛一頭のうち、毛一本もない」

本を読んでるだけの学者もどきは別にして、毎日生命に接している生物学者は進化説を信じません。
絶妙なバランスで生きているので、わずかな変化でも生きていけないことを実感します。
「私は進化説を認めないが、他の学者は流行に逆らえない」(日高敏隆京大教授)
以上科学論争であって、宗教vs科学という場外乱闘に持ち込まないでください。

ここから宗教以前の議論
死を考えることは生命を考えること。
人間の、浅はかな頭で分かるような小さなものではありません。
毛一本すら分からず、牛全体を理解しようとすることが、無益なことです。

命をいただき、その源である方と共に生き、また源に帰っていく。
「主は与え主は取り去る。主の御名はほむべきかな」ヨブ
どうすれば神を見出し、信頼し、共に歩めるか。
人間鵜呑みできるほど、素直ではありません。
ここから宗教。
少しずついきます。お付き合いを。

Wednesday, December 13, 2006

死は恐くない?!

いきなり「死は恐くない」等と言われても、やはり恐いものです。
まともな宗教の、並みの信仰者なら、死は恐くないのですが、やはり不安です。
恐くない理由を少しずつ記しますが、まず恐いことを素直に認める事から、始めましょう。

聞き覚え部分が多いので、正確でないことを、何度も言い訳してますが、
吉川英治の宮本武蔵にも出てくる有名な沢庵和尚。臨終の床にあります。
さぞかし名言が聞けるかと、秀吉だったか、家康だったか「遺言は?」
もう声も出ない状態で、ささやいたか書いたかで「死にたくない…」
「さすが名僧。臨終までも冗談が言える」
「冗談でなく本当だ…」

沢庵は修行が足りないと思いますか?
たぶん彼は死を恐れない心境に達しながらも、もう一歩進んで、すなおな心になり、見栄を張らず「恐い」と言える境地だと思います。
まず凡人から180度変わり達人となり、また変わって180度。一見凡人風達人。

次は達人風凡人。
知り合いの医師の話。
名僧、高僧と言われる人がガンで入院してきました。
「死の準備は長年の修行で出来ている。残る一日一日を大切にしたいので告知してくれ。ガンだろう?」
担当の修行の足りない若い医師は、そのまま信じて、尊敬の思いで、うなずいてしまったそうです。
それ以来この名僧、食事がのどを通らず、しょげかえって、死期が随分早まりました。
この病院では、それからしばらくは、告知しない方針になりました。

でも知り合い医師は、その後、告知賛成に意見が変わりました。
何人かの若者が難病で死ぬ時、家族や病院スタッフに「ありがとう」と言い、幼児が母親に「先に死ぬけど、お母さん悲しまないでね」と、かえって親を気遣って死んでいった姿を、幾度か体験したそうです。
厳しい修行より、幼い純真な信仰が、死を乗り越えたのです。

Sunday, November 05, 2006

近況報告

情報をお寄せ下さり葬儀用品調達できるようになりました。かなり安いです。お手伝いします。
12/22(金)花ポシェットミニコンサート 18:30                       
12/24(日)西日本ルーテルあお教会 12:30 クリスマスコンサート      
こちらも覗いてください。
笛吹牧師山の詩   http://music.geocities.yahoo.co.jp/gl/zionsvjp
笛吹牧師の結婚講座 http://plaza.rakuten.co.jp/zionsvjp/
網干キリスト教会:
フルート教室:網干教室(網干高校北300m)&新在家教室(県立兵庫大学西、姫路恵教会内)
                     090-3922-2995    
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傷口に塩2

葬儀に多額のお金がかかるのは人生最大の悲しみに、さらに苦しみを増し加えることとなります。
全国平均280万円。
このベラボーな数字をこのブログで何度書いたでしょう。
助け合いの意味で、皆様の香典があるでしょう。
遺族はこれから生活していかなければなりません。
それを葬儀屋がごっそりもって行きます。まだ足りません。
ご近所の情報ですが、あるお寺はお布施が少ないと「もう少し考えてください」と突き返されたそうです。

悲しむ人を苦しめる現在葬儀事情ですが、それでも伝統は強く、改革は容易ではありません。
でもキリスト教形式をとると、伝統を大切にすることも、伝統に捕らわれないことも、共に可能です。
キリスト教専門の葬儀社は、自らもクリスチャンであるのが普通で、さすがに洗練され、感動的な演出をしてくれます。一般的には自信を持って勧められますが、やはり50万円100万円という経費がかかります。

長谷川町子さん黒柳朝さんのように、著名人は密葬形式が増えてきました。
商行為に流れた現状への抵抗、社会改革の主張と思います。
そして教会はセレモニーのエキスパートのはずです。
洗礼式、正餐式、結婚式。なぜか葬式だけは業者抜きは、考えたこともないようです。
柩と骨壺があれば、なんとかなります。
純粋な宗教行為が可能になります。
これら葬儀用品は、幾人かの方々が情報をお寄せくださり、めどがたちました。
そして、行く先々の行政担当者、議員、民生委員、教会で、頼もしい手応えを頂いています。
「キリスト教会葬儀はたとえ無料でもやってくれる」という評判ができるのも、近いことと信じます。

傷口に塩

ある映画の内容ですが、辛いことが重なり、とうとう自殺に至りました。
人生最高の悲しみは何でしょう?
自分の死でしょうか?
違います。死んだことがないので、たぶんがつきますが、自分の死は良くわからないうちに訪れますので、悲しむ余裕もないでしょう。
自分のいのちより大切なものがあります。
考えられる中で、最もあってはならないこと。
我が子を亡くすことでしょう。
もう想像だけで、涙がにじみます。とても生きてられない。

順調にいけば、親が先に亡くなります。
順調といってもたまらない悲しみです。特に若ければ若いほど。
そして避けて通れない体験です。
自殺した人の家族はどんな大きな悲しみでしょうか。
人生最大の悲しみを、みんなで泣くことで、遺族に少しでも慰めがあり、立ち直っていくのを支える「葬儀」。伝統の知恵が産みだしました。
村八分も火事と葬式は協力します。

ところが、悲しみを慰めるどころか、傷口に塩をすり込むような事が行われています。
映画では、真面目で優しいそうな牧師が、規則に忠実に言います。
「自殺者の葬儀などはできません」
優しい顔立ちから村八分より冷たいことばが出てきます。そのギャップが、余計残酷さを、感じさせます。

人として生まれて最も悲しい時に、教会は役にたたないばかりか、傷口を広げている。
まだまだ多くの日本の教会も、同様でしょう。
9月のブログでも嘆いたように、葬式依頼の想定すらしていない。
当然、一般の方々は、教会で葬儀などと、考えたこともない。

ベテラン牧師、教会員にとって、この仕打ちは当然という考えです。
非信者を断ることにより、教会は尊敬され、尊厳を守ると考えているようです。
北野武さんが「暴力団と宗教団体は内部地位が上がるほど、内部で尊敬され、一般から離れていく」

幸福を招く死の備え

行きている間に墓を作ると長生きをするジンクスがあります。
「縁起が悪い」と死を考えないようにするのは、地震の備えをしない以上に愚かでしょう。
地震より確実にやってきます。
備えれば、最低限の被害で済みます。
そして、まともな宗教なら、死の恐怖を解決してくれます。

人は必ず死ぬことを意識すると、生きている今を大切にできます。
限られた時間です。行動の優先順位を守り、健康に気をつけ、食生活を考えれば、日々が充実し長生きもできるでしょう。

 ちなみに我が木下一族、江戸末期から先祖代々「墓は作るな」という、家訓があります。
 作らない理由は「墓管理で子孫に迷惑をかけるな。世界に羽ばたく子孫の足を引っ張るな」
 我が先祖は、何とすばらしい。死を考えるどころか、その先までも。

明日は死ぬかもしれないという気持ちが、今日をより良くいきるエネルギーとなります。

手塚治虫「火の鳥」
かつて夢中になって読みました。
いのちの議論で印象深いシーンがいくつかあります。
 火の鳥の血を飲むと不老不死になるということで、人は追いかけます。
火の鳥は言います。
「足下の蟻を見なさい。半年ほどの間に、生まれ、働き、子を産み育て、死んでいく。
人間は、蟻から見れば不老不死と思えるほど、長生きができでしょう。でも蟻より幸福に生きてますか?」

Friday, November 03, 2006

葬儀こそ自給自足で

我が家は先祖代々由緒あるビンボー
玄関チャイムまで、すっかり錆びたのか、「ピンポン」と鳴らず、「ビンボー」と鳴る。
お金がないので、当然自分でできることはやる。
小学生で自転車のパンク貼り。中学生で写真は自分で現像。これはかえって高くついた。で新聞配達。
フルートの分解整備。教習所行かないで免許とってバイト。ピアノ買えた。
ピアノも自分で調律。
自動車の車検も自分でやるとなんと安い。
これは親の代から付き合いの修理工場に車検に出したら、翌月にブレーキがすり減っていて鳴き始めた。
点検すらしていない。業者任せは、あまりにも危険なことを実感。
最近は疲れる。アンテナを屋根でセットしながら、「落ちたら高くつくナ」あれ〜めまいが・・でも家の塗装もやらねば。

 私の父は、大の宗教嫌い。
「宗教など金銭目的か、政治目的だろう」冠婚葬祭大嫌い。「見栄に金の使いすぎ」
その父がキリスト教に好意を持つきっかけは、私の婚約式。
友人たちが、自然な感じで教会に集まって、30人ほどで式とティーパーティ。
父は「これはいい!お金かかってないのに心がこもっている。結婚式は親戚全員に見せたい。みんな呼べ!」
晩年20年は脳卒中で身障者。最後の5年はしゃべれず、食べられず、寝返りもできない。でも精神的には枕元のテレビでキリスト教番組で絶望から救われていた様子。人が来ると、見栄張ってサッとチャンネルを変える。
ある日妻が「おじいちゃんイエス様信じる」「うん」
あれ!天と地がひっくり返った。神は全能だけど、父をクリスチャンにするのは無理でしょう。それなのに・・
あれ!これは私がクリスチャンになった時、友達に言われたこと。
硬直して足も腰も曲がらないまま車いすに乗って、礼拝を楽しみにする日々の後、平安の内に天の国に帰りました。
父の喜ぶ葬儀。確実に言えることは、お金かけず「手厚く」する。
業者に頼むのは「手抜き」
柩と霊柩車で2万円強。お花は親戚が贈ってくれて多分10万円ほど。豪華。
お通夜は自分で牧師をやり、翌日の葬儀は高名な広島の植竹先生をお願いし、トップクラスのオルガニスト、シュニーベルガー先生、今シュテュットガルトオペラで夜の女王などを歌っている角田祐子さんたちが歌いに来てくれ、自分でもフルート吹く。
私が牧師と楽団と葬儀屋と喪主をやるので姫路恵教会の中村健市先生がきめ細かな働き。
何とすごい贅沢。自給自足の基本姿勢が、信頼や友情を改めて確認して、本当に手厚くなりました。

Tuesday, October 31, 2006

あるパターン。間に合わない行政、業者、そして教会

先日さっそく、「生活保護を受けている独居老人が危篤です」と知らせがありました。
高速道路で1時間半かかる兵庫県東部S市の病院でした。我が愛車はスクラップ工場から拾ってきたもの。飛ばしながら、車が先に臨終にならないかと心配でした。
うすい意識のもと聖書読み、祈りました。口腔ガンで呼吸困難、手足のマヒとけいれんで苦しむ中にも、ほっと安心した表情になったような気がしました。そしてその夜、神のもとに帰りました。
まず葬式会場捜しです。その市内の教会いくつかに電話しました。判で押したように「役員会に相談してから」。これでは間に合いません。なかには「自分の教会でやりなさい。それが筋でしょう」まさにそのとおりです。正しいのです。でもなんだか冷たい言葉。自分の教会以外は関係ないという態度に見えます。お忙しい律法学者は困ってる人がいると別の道を行くようです。自分の教会まで片道100キロの往復はできないので病院の霊安室を式場にお借りしました。
また私の車では、あまりにもみすぼらしいと、霊柩車を手配すると、「市にはないので業者に」と市役所。業者は「霊柩車だけでは受付ません。基本料金を。」この基本料は50万とか100万円。一般的には適切な価格かもしれませんが生活保護受給者に払えますか?遺族もいなくて誰が払えますか?遺族があっても緊急に用意できる額ですか?大黒柱を亡くしたお宅は、これからの生活費が大変なのに。などと怒りながら、柩の乗るワゴン車を手配し、お花、柩や骨壺など調達しました。計3万円ほど?!。2桁安。故人の生活保護費の残額で買えました。生前に会えなかった遠縁の方々数人と式が始まりました。
私のフルート演奏でアルビノーニのアダージオが前奏、嗚咽を思わせる旋律。皆さんの心のこもった賛美歌。聖書朗読でキリストの永遠の愛、あらためて生きることの意味、真に幸いの意味へと進んで、希望をあらわす簡素にして充分な色花で飾り、院長以下病院スタッフ全員で送ってくださいました。この病院は技術と心が備わっていると感動的なひとときでした。
無収入の人をも、これだけ手厚く介護できる日本の福祉行政はマザーテレサを必要としないほどの90点以上の完成度。そして教会の優しさも90点。あとちょっとの違いが天と地を分ける結果になります。それを満たす努力が、自分たちの仕事かなと決意させられました。また人生の最後まで大金がいる社会であってはならないと。

宗教式典は商売?

一般式場のキリスト教式結婚式は10年ほど前、教会の指導で始まったものの、やがて多くの式場は教会より離れて形骸化しました。
本物牧師は「健やかな時も、病める時も」と縁起の悪いことを言うからだめだそうです。
うれしいことは分かち合って喜びを倍にして、苦しいことがあれば、力を合わせれば半分にできる。
「後半はダメ!」・・だそうです。
十字架という最も残虐な死刑台の前で、いまさらと思いますが。

いつのまにかインターネット通販で手に入れた牧師証明書をもったニセ外人牧師が横行しています。彼らなら、書かれたものを棒読みするだけなので間違いが最小で済むということです。神への畏怖の念は皆無。入国管理局が動いています。裁きを受けるでしょう。
それにしても、いまだ進駐軍コンプレックスが若い人にも残っているようです。
式場もお客さんもニセ者とうすうす気が付きながら、人生のスタートをニセでいいんでしょうか?
並みのクリスチャンなら、二言三言会話すると、本物かどうかわかります。
簡単な見分け方。
「○○をお祈りください」と言えば、マニアルにないので偽者はおどおど。
私も「先週、父が亡くなりました。父の望みどおり、結婚式を中止しなかったのです。お祈りをしてから結婚式を始めてください」と言われたことがありました。悲しみの直後の喜びは、涙、涙のすばらしい式になりました。
あるいは「神を信じるのになぜイエスキリストが必要ですか」
この質問は重要です。教師資格のある人なら、わかりやすく答えてくれます。

 さて、せめて葬儀は教会が正しく導くべきと感じています。式には音楽が大切な働きをするので、この点からも、私の使命です。
仏式葬儀マニュアルを見ると、葬儀業者に連絡が第一。お寺に連絡は5番目ぐらい。
僧侶の選択は業者に主導権があります。業者は客の迷信でも忠実に従います。仏教としての指導の機会がありません。「親鸞上人が踏みにじられている」とは、私が尊敬する御僧の嘆きです。
第一報があると「式は費用のことも含め、すべて心配ありません」と言える牧師や長老の準備が必要です。

さて牧師たちの勉強会において「身寄りのない人やホームレスの葬儀はどうなっているのだろう」という話になったことがあります。行政がやってくれているようですが、「人として最期の尊厳は守られているだろうか」
「火葬だけで、まるでゴミ処理扱いでは?」と心配になりました。「たとえ無料でも我々でやろう」と話合いました。
完全に宗教行事風商行為になった婚葬儀でも、商人が手も出さない部分を宗教行為の原点に戻したいのです。

弱き人の尊厳を守ることが自分の尊厳を守る

オリヴィア ハッセー主演の映画「マザーテレサ」は感動的でした。
絶望あるところに 希望を運べるよう
悲しみあるところに 喜び運べるよう

慰められるより 慰めることを
理解されるより 理解しよう

愛されるより 愛することができるよう
なぜなら 与えることが受け取ること
なぜなら 赦すことによって 私達は赦されるから。
死ぬことによって 永遠のいのちへと 生まれ変わるのです

飢えと貧困で死にゆく人に暖かく接して、最後のひとときを、そして尊厳を大切にしました。キリスト教に固執せず、ヒンズー教徒にはヒンズー教徒として、イスラム教徒にはイスラム的に対処しました。
彼女の思想と行為がキリスト教の信用と好意を得ることができました。

いずれ我々は神の前に立たねばなりません。
キリストは言います。「おまえ達は私が空腹であったとき、食べるものをくれず、渇いてるときにも飲ませず・・」
「私にはあなたを粗末にした覚えがありません」
「最も小さい(弱い)者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。」(マタイ25:42-45中略)

パンとワインを「キリストの肉と血です」とするカトリックのミサは無理があると批判していた私ですが、キリストでもないホームレスをキリストとして仕えていくマザーたちに、私の聖餐論神学は吹っ飛びました。
キリストはヒンズー教徒に変身していました。
この町のホームレスはキリストの変身です。
キリストはあやふやな信仰でも、親切なサマリア人を高く評価しました。
正しい信仰を持ち、人々の尊敬を集めるパリサイ人でも倒れた人を見ぬふりをすれば、キリストが悲しまれます。
正しく有能で冷たい人は最もタチ悪い。
「クリスチャンでなければ冠婚葬祭はやりません」と正しいことしている(つもり)教会はキリストを見捨てているのかも