Monday, January 29, 2007

こころの空間

あるキリスト教宣教師のお話
この宣教師は、理屈っぽく、哲学的な団体に所属しています。
インドネシアに着いたとたん「ちょうどよかった、悪霊に憑かれて、暴れている人がいるので来て下さい」
「そんなこと言われても、私は理屈の講義しかできません」
「なに言ってるのですか、宣教師でしょう。頭に手を置いて、イエス様の名によってお祈りください」
「それほど言うなら、やってみます。あれ出来ちゃった」

「私達は聖霊の宮である」(新約聖書)
神によって作られた我々は、神でなければ、満たされない心の空間がある」(パスカル)
その空間は、神の聖霊が入っているか、はたまたいかがわしい霊が宿っているか。
悪霊が入ると、人格が壊れたり、(精神病とは違う症状)霊感や特殊能力が出たりします。
テレビでしか見たことがないので、私もいきなりは、信じられないのですが。
ほとんどの人は、その入り口を、「自我」が、がっちりとふさいでいます。

指導者のない、中途半端な宗教修行は、悪霊を心に招いてしまいます。

十字架の死が救いになるという、桁外れにいかがわしいことが、理屈抜きに信じられるのは、理性を放棄したか、聖霊がしっかり入っている証拠です。
キリストの名によって、信じられないほど大きな力が出てきます。

Thursday, January 04, 2007

お化けの話し2

「お化け」などと、ちょっとからかったような、言葉を使っています。
当然、ご先祖だったら、からかっては失礼です。

先祖も私たちも、神に作られ、神と歩み(ほとんどは一人身勝手に)神のもとに帰るわけです。
そこは天国か、はたまた地獄か。遠いところです。
近くで、いつまでも、うろうろしていません。
うろうろしているのは、先祖に化けた低級悪霊です。
そんなもの尊重する必要がありません。

私はお化けを見ることができませんし、見たくもありません。
でも不思議な話は色々聞きます。
ばかばかしいものがほとんでです。
でも個人情報を知っているお化けは「やはり」と思いやすいでしょうね。

音楽学生の時、ある友人は(お化け見えるのは、なぜか女性ばかり)
「親戚の葬儀に出席しているとき、なにかがフッと私に入ってきました。
前に並んだ初対面の人達の名前が、急に全部わかりました。故人が入ったことがわかりました。」
とのこと。

隣の町の魚屋さんが、ある時この能力が突然ふりかかりました。
いまや広大な敷地と大神殿を持ち、全国規模の宗教団体となりました。
それを見ながら、霊能力のある人は、言います。
「昼夜問わず、お化けのうるさいのと対応して、うんざりしているのに、わざわざお金払って修行して、能力を身につけ、うんざりしたいのかしら?」
随分単純。

オームの麻原なんたらも、多少の能力があったかも。
蓮華座組んだまま空中に浮かべば幸福になれるのかしら?幸福と関係ないと思うけど。
いかがわしいテクニックに感心して、人の生命を奪い、人生を無駄にした愚かさは霊能力のため。
お化け信仰の結末。
次回、キリストの御名により、悪霊を追い出した聖書の記述にはいります。