Sunday, October 12, 2014

神がいるのになぜ苦しみがあるのか。

ドラマや物語りでの悲しい話には、感動があります。
感動の源は、希望でしょう。
 私にとってそれらのお話の中で、両親をなくし、自分も幼いのにもっと幼い弟、妹を守ろうとする話は、自分が話していても、涙ぐんできて、上手に話せなくなってしまいます。
 テレビで見たドラマですが、終戦を外地で迎え、父親が殺され、日本に引き上げようとするも、母親が病死して、7才くらいの長男が小さなシャベルで埋葬します。
まだ死の意味がわからない3才くらいの妹が「なぜお母さんを埋めるの。お兄ちゃんのバカア〜!」とお兄ちゃんに砂をかけながら叫ぶ話など、今、これを書きながら涙ぐんできました。
野坂昭如の「ほたるの墓」などは、懸命の努力をしながら、妹は病死し、本人も死ぬという救いのない話ながら、いのちの尊さを訴える感動があります。

ヨブ記は壮大なドラマ、また壮大な神の計画が記されています。
私はヨブ記を学んだ時、現実の不条理を正面から捉え、安易な因果応報話に持ち込まない、これこそ神のメッセージであると確信しました。

神には人が作った神と人を作った神があります。
人が作った哲学を積み重ねていって高くなった宗教と、人を作ってくださった方のメッセージが上から下ってきたものとがあります。

人が作った宗教は、当然学べば理解できます。
しかし、日常起こる理不尽な事は理解不能なことばかりです。
ニュース解説で有識者と言われる人が、事件の背景などの解説をしますが、そのほとんどは的外れなのは、彼の知る領域が「専門」と言われるほど、狭いゆえです。

ヨブの体験したことは、どんなお話より悲惨にして悲しい話です。
しかしホタルの墓ほど悲しく感じないのはなぜでしょう。
現実の話なのに。

一つは暴れまくるサタンを神がチャンと支配しておられることです。
「命までうばってはならぬ」に、サタンも背けません。
「何の理由もなく彼を滅ぼそうとするのか」(2:3)と、神はサタンに怒ります。
因果応報が全てではありません。
読者の我々は、神が私達を守って、サタンをコントロールしている背景を知っているので、試合結果を知って録画の野球試合を見ているように、ハラハラドキドキはあまりしません。

さて当のヨブは、そんな背景を知らないのに、神の守りを信じています。
「私は裸で生まれてはだかで帰る。主は与え主は取られる」と最高の信仰告白をします。
また
「幸いを受けたのだから、わざわいも受けるべき」という発言は、もう信仰者の鏡です。
信仰者として最高のステージでしょう。

しかし最初に私がヨブ記の学びをした時の講師は言われました。
「並のクリスチャンなら、この程度のことは言えるのです」
最高の悟りと思えるほどのステージが「並」とは。

「しかしヨブの苦しみはここから始まる」
と、まだまだ最高のステージに立ったヨブを、さらに苦しみ痛めつけるできごとが起こります。
苦しみの長期化と、もう一つは何と、ヨブを愛して心配して、助けになろうと、何日もかけて外国から駆けつけた友人達が、善意で取り組む一つ一つが、ヨブを最高に苦しめることとなります。

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