Friday, October 17, 2014

あまりにも大きいゆえに、深いゆえに理解不能はあたりまえ

指揮者の故岩城宏行の言葉ですが、「僕はずっと野球選手になりたくて努力していた。本気だった。でもなれなかった。でも指揮者になれた。指揮者になりたくて本気で努力している人が多いけど、なりたくてなれるものでもない」
世俗の職業でも、才能と努力、その前に熱い熱意、認めたくはないが確かに強運も必要。

イエス様の弟子達は、どのような動機で弟子になったかは様々だろうが、ほとんどが、イエス様の方から誘いがあったので、本来選択ミスはないはずである。

その弟子達が親の力まで借りて、ポジション争いを始めた。
ヤコブとヨハネは、霊的指導を受けながら、地上的地位を求めた。
霊的、地上的に関わらず、熱心に求めればいいわけではない。
たしかに神は動機も与えてくださる。でもそれは自分の欲求からのものかどうかは、長期間経たないと不明なことが多い。

夏目漱石の小説「こころ」がここ数日話題になった。
自殺者のこころを理解していく過程。ほぼ理解したと思える時点で、まったくわからなくなって終わる。
宇宙の研究もずいぶん深くなったが、深くなればなるほど、わからなくなる。
どんな宗教の信仰の道でも知れば知るほどわからなくなるもの。
我々の信仰も知れば知るほどわからなくはなるが、ただし、感謝と喜びが無限大となる。

神は主権を持っておられる。我々の思い通りにはならない。
その御意志、みこころはわからないことがほとんどである。
こんなに恵まれていいのであろうかという、肯定的疑問。
神がいるのになぜこんな苦しみがという、否定的疑問。



 神は我々を様々なポジションに召し、それにふさわしい訓練、試練がある。
この時点では、なにもわかってなかった弟子達。
イエス様の杯を飲むと、かなり軽はずみな答えをしている。

やがてヤコブは殉教第一号となり、ヨハネは比較的長生きをするも、パトモス島に流され苦しい最後となった。ペテロもパウロも殺された。
イエスさまの杯を飲む事となった。
しかし、そこには「イエスさまに仕えているのになぜこんな苦しみを」と嘆く姿はない。
かえって苦難をよろこんでいるようにすら見える。
イエス様の弟子になったことを悔いる人は皆無だった。

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